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雑記帳
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大東亜戦争ニュース・2015/3
金日成
2015・3・31 産経ニュース 龍谷大教授 李相哲 必見 満州国関連記事 
名をはせた普天堡戦闘…実態は犠牲者幼児1人  虚構の進軍命令、ソ連軍は「対日戦に参加させず」
「記事内容抜粋」
金正日(キム・ジョンイル)は2010年8月、父、金日成(イルソン)が学んだ中国吉林市の毓文(いくぶん)中学校を訪れた。
2年前に脳卒中で倒れてからは体調が優れず、無理を押しての外遊だった。
真偽は不明だが、後継者の金正恩(ジョンウン)が同行したとも伝えられた。
事実なら「革命発祥地」として、見せておかなければならない何かがあったのか。 
1927年2月、日成は父、金亨稷(ヒョンジク)の知り合いを頼りに毓文中を訪ね、中学2年に編入した。
旧満州で漢方医をし、独立運動にも携わった亨稷は、地元朝鮮人社会でそれなりに名の知られた存在だったようだ。 
日成は回顧録『世紀とともに』で、こう振り返る。 
「吉林にいる名士らは、ほとんど父と面識があった。父の親友らの家を頻繁に出入りし、そこで独立運動指導者たちに出会った」
日成は「金日成」という名が「祖国」でどう伝わり、実年齢がどのような反響を呼ぶかを熟知していた。
それを利用しようとしたソ連の思惑をも逆手に取って瞬く間に権力を手中にする。
  駐在所はぬけの殻  “消去法”の地位  利用しようとしたソ連「若くうれしい」  
 
金日成の北朝鮮誕生秘話であろう。
朝鮮半島は嘘だらけ、北も南も建国に至る歴史は嘘で飾られている。
シナも同じだが・・・日本以外、北東アジアは嘘つき国家ばかりである。
2015・3・28 産経WEST (1/2ページ)
「大和の科学技術は戦後花開く」 広島・大和ミュージアムの相原さん講演
「記事内容抜粋」
戦後70年の節目に平和の大切さを学んでもらおうと、特別企画「零戦(れいせん)と戦艦大和講演会」(産経新聞社など主催)が27日、大阪市北区の市中央公会堂で開かれた。
広島県呉市の大和ミュージアム統括、相原謙次さん(60)が、戦艦大和の造られた経緯などについて、資料を示しながら講演。
「大和に結集された技術は戦後さまざまな分野で花開き、高度経済成長を支えた。志を持って日本を守ろうとした技術者や乗組員の思いを後世まで伝えたい」と訴えた。
2015・3・26 産経WEST 岡田敏彦
「武蔵」は爆発し海中で大きく流された? 発見映像から次々判明する驚愕の“新事実”
「記事内容抜粋」
旧日本海軍戦艦「武蔵」がフィリピンのシブヤン海で米マイクロソフト創業者のポール・アレン氏によって発見されたニュースは、日本の研究者にも大きな驚きとなって広がった。
大和や武蔵当時の資料がほとんど残っておらず、その知名度とは裏腹に各部形状や改修状況で不明な部分が多い。
今回の発見で公表された映像は、そうした謎を解き明かす画期的な資料として注目されており、日本の専門家に聞いたところ「新事実」も次々と明らかになった。
  専門家の視点  戦闘詳報の“正しさ”も  予想外“本当の武蔵”の姿  大きく流された
2015・3・25 木村正人 在英国際ジャーナリスト
旧日本軍の残虐行為を描いたアンジーの『アンブロークン』と安倍首相の戦後70年談話
「記事内容抜粋」
冒頭略
  「日本の人はよく見てほしい」
戦争には「加害」と「被害」の両面がある。
日本では戦後、ヒロシマ、ナガサキという被害の側面ばかりが強調され、旧日本軍による戦争捕虜への残虐行為、南京事件、慰安婦問題は長い間、語られてこなかった。
今の日本で、こうした被害者に直に接した人がいったいどれぐらいいるのだろう。
英国では1994年、旧日本軍の戦争捕虜だった人たちの団体JLCSAのアーサー・ティザリントン会長(故人)ら7人が1人当たり1万3千ポンドの補償を求める訴訟を東京地裁に起こした。
98年11月、東京地裁は「国際法は個人の損害賠償請求権を規定していない」と原告敗訴の判決を言い渡し、2004年、最高裁で同会長らの敗訴が確定した。
英国の兵士だったティザリントン会長は第二次大戦中、シンガポールで日本軍の捕虜となり、台湾で強制労働をさせられた。
戦後50年の1995年に日本テレビのロンドン支局長として同会長を取材した元田成(せい)さん=現・白鴎大学客員教授=に電話でお話をうかがった。
元田さんによると、同会長に3回も4回もインタビューしたが、通り一遍のことしか言ってくれなかった。
そこで娘が焼いたケーキを持ちオックスフォードにある自宅を訪れ、空気が和んだところでもう一度インタビューを申し込んだ。
「なぜ、そこまで日本を追及するんですか」としつこく食い下がると、TVカメラの前で平静を装ってきたティザリントン会長は顔を紅潮させ、「これを見せてやる」と自分の口に手を突っ込み、入れ歯を取り出して床に投げつけたという。
歯が一本もなかった。
堰を切ったように同会長は涙声で話し始めた。
戦争捕虜は毎日、天皇陛下に向かって敬礼しろと命じられた。
従わなかった同会長は日本兵に銃を使って顔を殴られた。
何度も何度も殴られ、ついに歯は一本もなくなってしまった。
何とか生き残って英国に帰ったあとも、「残虐行為」 を受けたトラウマに苦しみ、うつ病になったり自殺したりした戦友もいる。
オックスフォードを訪れる日本人留学生や観光客が日本語を話すのを聞くと、ビクッとした。
同会長は「なぜ、自分がこんなにひどい扱いを受けたのか知りたい」と日本の本を読んだり、研究したりした。
日本の首相、大臣、政治家、役人に手紙を出したが、まったく相手にされなかった。
そのため日本で裁判を起こしたという。
元田さんの取材は、櫻井よしこさんがキャスターを務める夜のニュース番組『きょうの出来事』で放送され、若い視聴者から「これまで知らなくて驚いた」「ぜひ日本人としてアーサーさんに謝りたい」という手紙何通も送られてきた。
元田さんは手紙をすべて英訳し、ティザリントン会長に届けた。
同会長の言葉は元田さんの心の中に今も刻まれている。
「自分は日本人全体を憎んでいるわけではない。日本の政府や責任ある立場の人に対して怒っているんだ。それを理解してほしい」
 
先ず言いたい。
木村は大日本帝国が嫌いな様だが、一握りのイギリス人の証言を引用し、全てを一緒に論じるものでは無い。
もう一つは、大日本帝国軍が実行したとされている捕虜への残虐行為、南京大虐殺、慰安婦(性奴隷))が事実と信じている様だが、全て嘘であり、己で国際ジャーナリストと自認するからには、史実を確り調べて記事にしろよ、愚か者。
一つの証言だけを捉え大日本帝国軍が全て悪と決め付けるのはナンセンス、大きな過ちを犯す事になる。
主張を曲げないのであれば、木村は敗戦利得者or自虐史観の持ち主であろう。
当時は戦争である。
大日本帝国軍の捕虜収容所で日本軍兵士が天皇陛下に向かって敬礼をしろと命じれば、捕虜は大人しく命令に従えばいいだけでは無いのか? 当時、日本国内は、食糧が乏しく国民は皆、生活苦に耐えながら、戦地優先と食糧等物資を戦地に向け送り出していた時代である。
兵士が食料を届けてくれる天皇陛下に感謝し、捕虜に天皇陛下に敬礼をさせるくらい何が悪い。
反抗さえしなければ、殴られずに済んだはず。
イギリスのチャーチルは人種差別主義者、この御仁は人種差別主義者ではないのか? 白人は当時、アジア人を猿にしか考えていなかったハズである。
彼はキット、猿に捕虜にされ悔しかったのだろうよ。
大日本帝国海軍がイギリス帝国海軍との海上戦を終えた後、漂流するイギリス海兵全員を救助した美談もある。
これ一つでは無い。
大日本帝国軍が事実残忍であれば、美談が残されるハズが無い。
それから、イギリスは、インド、ビルマ、マレーシア、アフリカ地域の人々を奴隷として使い、膨大な人々の生命を奪っているが、知った上で記事を書いたのか? イギリス人は当時、殺人、優秀な若者がいれば両手首を切断、女性は強姦と醜い扱いをしていたのを知っているのか? ただ一例を取り上げ、お涙頂戴の記事を書くなと言いたい。
事例は事例として扱うのはいいが、無垢な日本国民を何処に誘導したいのか? 不愉快な意図さえ感じるのだが・・・、
2015・3・22 産経WEST 地方部 鈴木哲也 
戦後70年、身近にいる戦禍生き抜いた人たち…「大切な話」伝えたい
「記事全内容」
個人的なことで申し訳ないが、先日鳥取の実家で珍しく父親とゆっくり話をする機会があった。
79歳。
どのような流れだったのか、その日は、戦時中のことを少しだけ話してくれた。 
もとは大阪で暮らしていたこと。
親戚を頼って鳥取に疎開し、きょうだいがバラバラの生活になったこと…。 
結構な話なのに、これまで聞いた記憶がない。
聞き流していたのだろうか、とちょっと考えてしまった。 
戦後70年。
戦争を直接知る人たちの高齢化が進むなか、今年は「生の証言」を残すことができる最後の節目とも言われる。
地方支局の記者たちは今、戦禍を生きた人たちの証言を聞き取り、思いを伝えることができないかと取材を積み重ねている。 
「もう70年なのですね」。
広島で空襲に遭った90歳の女性は、絶望的な光景を前に自ら死を選択しようとした当時の惨状を、ゆったりとした口調で振り返ってくれたという。
高松空襲で頭に大けがをした76歳の女性は「病院の死体置き場にワラにくるまれて積まれていたのを、親戚が見つけてくれました」と、信じられないような体験を記者に語ってくれた。 
歴史を伝える貴重な映像や記録は多い。
それでもやはり、体験者の生の証言に勝るものはない。
原稿に目を通し、改めてそう強く思う。
言葉だけでなく、表情や口調からも思いを感じ取り、伝える努力を続けたい。
そして、「大切な話」は身近にあることも忘れずにいたい。
 
話を聞けただけで幸運である。
私の父は終戦前、満州に出兵したが、子供の頃、満州の極寒の状況、「小水が凍る、人糞が凍る」 だけをを聞い覚えがあるだけである。
父宛に戦友から手紙が来ていた事を思い出す。
今生きていれば、多くを聞けただろうにと、至極残念で仕方が無い。

2015・3・23 産経ニュース (1/5ページ) 【野口裕之の軍事情勢】 政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS 
近代海軍史のレアもの 敵前逃亡艦を展示する中国の度胸
「記事内容抜粋」
大東亜戦争(1941~45年)で米軍の猛攻を受け、フィリピン沖に沈んだ軍艦武蔵を米資産家が発見したが、艦名の武蔵で、清国海軍・北洋艦隊の軍艦が唐突に頭に浮かんだ。
驚くべき船脚の速さを誇り?大日本帝國海軍の猛追を2回もかわしたが、1回目は白旗を掲げ降伏を装って、2回目は敵前逃亡だった。
しかも、最後は帝國海軍に鹵獲(ろかく)され、日本のために戦った。
そんな不名誉の塊の一部が、中国で博物館展示されている。
もっとも「恥史」を人民に披露するのは、正直だからでも、度量が大きいからでもない。
人民に日本を警戒させ、戦意を高揚する狙いがある。
いささか、説明の必要がある。
  清国海軍の巡洋艦「済遠」  「恥史」を公開する博物館  真意は軍国主義教育
中略
沈没した大和型戦艦二番艦・武蔵の発見で一番艦・大和の優しさにも思いが至る。
1983年の《歴史と人物》に載った関係者証言によれば、大和は
▽女性用美顔クリーム25万人分
▽生理用品15万人分
▽歯磨き粉・歯ブラシ50万人分を積んでいた。
物資欠乏の中、沖縄県民向けに調達した真心だった。
それを沖縄の地元紙はかつて、大和が沈まず沖縄に到着していたのなら、沖縄に上陸した米軍への艦砲射撃で、犠牲者は県民人口の半分に達していたと推測。
こう報じた。
  《あっ、よかった。大和が、沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった》 
大和と運命を共にした3056名の乗員は、同胞(はらから)による「反日無罪」を海の底で泣いている。
済遠の敵前逃亡は軍紀を逸脱したが、沖縄紙の報道は人間性を逸脱した。
2015・3・22 産経ニュース (1/5ページ)  聞き手 阿比留瑠比、力武崇樹 【歴史戦】 
稲田朋美・自民党政調会長 「慰安婦の次はぜひ『百人斬り報道』の訂正を」「首相70年談話は何も心配ない」
「記事内容抜粋」
かつて弁護士として「百人斬り」名誉毀損訴訟などを手がけ、保守派の論客として知られる自民党の稲田朋美政調会長が、産経新聞のインタビューに応じた。
詳報は次の通り。 
昨年は朝日新聞が慰安婦問題に関する一部記事を取り消して謝罪した。
でも、朝日新聞も毎日新聞も、昭和12年の南京攻略戦で旧日本軍の将校2人が、日本刀で「百人斬り」競争を行ったと書いた記事は取り消していません。
慰安婦問題の次はこの問題をぜひ訂正してほしい。
 
産経よ、稲田議員から上手く使われるなよ! この御仁、口先だけ、己は汗をかかず何も行動をしない単なるスタンドプレーアーに思うのだが・・・以後、注視して欲しい。
大日本帝国軍人の思い
2015・3・19 ユーチューブ 重要 
小野田少尉が語った日本が大戦を始めた真実
 「コメント」
終戦後もフィリピンで一人戦っていた小野田少尉。
既に小野田少尉は亡くなっているが、彼は生前ある演説を行っていた。
その内容とは!?
 
これこそ大東亜戦争を戦った日本人の思いであろう。
2015・3・19 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(12)】
東京に続いて狙われた大阪「炎の中でも動いた地下鉄、大阪劇場の屋根には焼夷弾が吸い込まれ…」高塚宏一さん(74)=東京都小金井市在住
「記事内容抜粋」
東京の下町が焼かれた大空襲からわずか数日後の昭和20年3月13日深夜から14日にかけて、B29は大阪でも容赦なく大規模な空襲を行いました。
大人の中には「東京の次は大阪だろう」という人も多くて、ある程度の心構えをしていた人もいたと思いますよ。
ただ、私は当時まだ4歳でしたから、東京大空襲のことなど知るはずもなく、ただ恐ろしくて泣くばかりでした。 
大阪市南区(現中央区)の日本橋に住んでいました。
自宅前の幅の広い道路には市電が走っていて、近くには生國魂神社やデパートがあったことを覚えているよ。
難波の千日前も歩いて行ける距離だったね。
2015・3・18 産経WEST 岡田敏彦 
70年ぶり発見「武蔵」に見る第1級のハイテクパワーと造船技術…日本の粋を結集、引き揚げは可能か
「記事内容抜粋」
「武蔵」を発見した-。米マイクロソフト創業者のポール・アレン氏がフィリピン中部のシブヤン海で旧日本軍の戦艦武蔵を発見したとするニュースは、日本はもとより世界を驚かせた。
アレン氏はツイッターで船体の写真を公開し、インターネットで映像も中継もした。
終戦から70年目の発見は、旧帝国海軍の敗北を決定づけたレイテ沖海戦の歴史を甦らせるとともに、巨大戦艦が誕生した時代背景にも焦点を当てそうだ。
当時の日本の最先端技術を集めた大和型戦艦「武蔵」。
そのハイテクパワーと戦前日本の造艦技術に迫った。
  全ては46センチ砲のため  その“目”はニコン  苦手な技術は  完成後は“ホテル”  引き揚げは困難?
2015・3・18 産経ニュース (1/5ページ)  【戦後70年~大空襲・証言(11)】
壊滅した深川から漂うのは「油の刺激臭、煙でいぶされた臭い、髪の毛が焦げた臭い、遺体の腐敗臭…」松崎静江さん(83)=東京都新宿区在住
「記事内容抜粋」
東京の下町が一夜にして焦土に変わった昭和20年3月10日未明、私は自宅のあった対岸の月島から、本所や深川が燃えている様子を見つめていました。 
空襲警報が鳴ったとほぼ同時に、編隊を組んで飛んでくるB29の黒い影が雲の切れ目から見えたの。
月島の真上あたりで投下された焼夷(しょうい)弾が、風に流されるようにして深川方面に落ちていったのよ。 
いくつも束ねられていた焼夷弾がばらばらと降ってくる様子は、まさに雨のようだった。
深川周辺はあっという間に真っ赤に染まって、空は新聞が読めるほどの明るさだったの。
ものすごい勢いの熱風とともに火の粉や火がついたままの紙くず、布きれだとかが月島まで飛んでくるようになるまで、さほど時間はかからなかったわね。 
当時、私は13歳。昭和18年ごろに母と妹が新潟に疎開していましたから、父と兄との3人暮らしでした。
  「月島を守らなければ」飛んでくる火の粉を走ってはたたき落と
  橋の下を流れる多数の遺体、日に日にふやけ、膨らんでいき…
  学徒動員先で迎えた終戦の日、「もう空襲はなくなるのだなあ」
2015・3・17 産経ニュース (1/5ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(10)】 
焼き尽くされ、人の気配も生活音もなし「上野から、建物で遮られていた東京湾が見えた」平井道信さん(79)=群馬県板倉町在住
「記事内容抜粋」
もともとは東京都下谷区(現台東区)の根岸あたりに両親、祖母、弟と暮らしていました。その家は昭和19年冬ごろの空襲で焼け出されてしまって、徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)で有名な寛永寺に近い上野桜木の借家に引っ越し、そこで3月10日の下町大空襲を迎えました。当時は9歳でした。 やはり空襲警報が鳴ると緊張はしますよ。ただね、あまりにも空襲に慣れてしまっていたので、冷静に防空頭巾をかぶり逃げる準備を始めました。上野の高台からは、浅草方面の空にB29が無数舞っていて、地面近くが赤々と燃える様子が見えました。 判断力もさえていました。B29の多さからして、隣組との共同の防空壕(ごう)は簡素すぎて身を守れないと直感で思ったんだ。
  ■「遺体を運んでいるようだったけど、真っ黒な炭になっていて…」
  ■芝生を剥がしてサツマイモ栽培、でも空襲激化で収穫できず…
  ■「東京はどうなっているかなあ」線路に耳付け故郷を感じる疎開生活
  ■食料も、住むところも、着るものもなく…ヤミ屋で暮らす日々
2015・3・16 産経ニュース (1/5ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(9)】  
「炎と熱気でままならない呼吸。叫ぼうとしも喉が…」山田浩子さん(83)=東京都練馬区在住
「記事内容抜粋」
戦争に関する記憶といえば、空襲と恐ろしさと、戦後の食糧難よね。 
東京の下町を焼き尽くした昭和20年3月10日の大空襲の後も、B29は容赦なく焼夷(しょうい)弾を落とし続けました。当時、私は13歳。通っていた桜蔭高等女学校(現在の桜蔭学園中学校)では竹やりの訓練もしていましたけれど、焼夷弾との圧倒的な力の差を見せつけられ、米国の科学にはかなわないと思っていました。 
さらに私を不安にさせたのが、空襲が山の手地域にも広がってきていることでした。
そして4月13日深夜、城北大空襲で小石川区(現文京区)にあった自宅を失ったのです。
2015・3・15 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(8)】
全身大やけどで倒れ込む男性「若い女性が、赤ん坊抱きながら『お父ちゃんが死んじゃった』と泣きわめいて…」立川国紀さん(75)=千葉市在住
「記事内容抜粋」
3月10日の下町大空襲は私の住んでいた地域を直撃しました。
自宅があったのは、現在の住所でいう東京都江東区三好2丁目あたりです。
白河、清澄と並び壊滅的な被害を受けといわれています。 
昭和19年ごろに父は東インド諸島に技師として出征し、40代前半だった母が家を守っていました。
子供は姉と妹2人、そして5歳だった私の計4人。近所の人たちが「ひどい空襲がおきれば、逃げ遅れて真っ先に犠牲になるのは立川さんのところだろう」と噂するほどでしたから、母は幼い子供たちも守らなければいけない、家も守らなければいけないと必死に1日1日をすごしていたと思います。
10日未明、「バババババーン!」とものすごい音ともに、自宅からわずか50メートルほどの距離のところに焼夷(しょうい)弾が落ちました。
2015・3・15 ユーチューブ 
日本人と戦う理由はない!!日本人との戦争に苦しんだ黒人たちの心の叫び
「コメント」
第二次世界大戦が始まり日本とアメリカは敵国となった。アメリカに住む黒人たちも日本との戦争に駆り出されたが、彼らは複雑な想いを抱えていた。
なぜ人種差別をするアメリカのために戦わなければならないのか。
そんな彼らの中にはこんな揶揄する言葉が生まれた。
「墓地にはこう刻んでくれ。白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、ここに眠ると。」
2015・3・14 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(7)】
背負った子の死に気付かぬ母親「首や手足もげてる子も…」堀越美恵子さん(80)=埼玉県羽生市在住
「記事内容抜粋」
私には2つの忘れられない空襲があります。
東京の下町を襲った、いわゆる「東京大空襲」と、疎開先の熊谷で遭遇した、終戦前夜の空襲です。
怖かった。
恐ろしかった。 
昭和20年3月、国民学校の4年から5年に上がる春、私はちょうど10歳でした。
自宅は千葉県市川市で、両親と兄、弟、妹の一家6人で住んでいましたが、父の勤務する研究所が東京・深川にありました。 
誰もが空腹と空襲におびえる日々。
父は食糧増産、巨大野菜生産のため、植物成長ホルモンの研究や、兵隊さんたちが携行する保存食などの開発をしていた。
バナナをまるごと3分の1くらいの大きさになるまで乾燥させたものだとか、今でいうドライフルーツみたいなものが多かったように記憶しています。
  ■「ヒタ、ヒタ…」今も耳に残る、うつろな目で前見据え、裸足を引きずる足音
  ■終戦前夜、再び経験した空襲
  ■「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」防空壕内で一斉に唱和 
  ■「なぜ、最後に空襲されなければならないのか」
2015・3・14 産経ニュース (1/3ページ) 【戦後70年】  
東京大空襲の記憶を後世に伝える活動、都内各地で 被害状況の詳細分析も
「記事内容抜粋」
先の大戦末期に10万人以上の命が犠牲となったとされる東京大空襲から70年が過ぎた。
下町を中心に、東京が焼け野原となった悲劇を決して忘れず、若い世代にしっかり伝えていこうと、都内各地では被害の実態を検証する企画展や写真展など、平和を願うさまざまな活動が行われている。
  地域別被害状況の地図も展示  語り部の話を集めた記録集を発行  庁舎内でも展示  
 
国が主催して大々的にやってはどうか? 日本人の声を思いをアメリカに届ける必要があるハズである。 
2015・3・13 週刊SPA!  取材・文/池垣 完(本誌) 写真/AP アフロ
資産2兆円のポール・アレン氏「戦艦武蔵は日本に寄贈したい」
「記事内容抜粋」
マイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏が発見した旧帝国海軍の戦艦「武蔵」が、戦中・戦後世代はもとより、往年の軍艦ファン、ミリオタまで多くの人を興奮のるつぼに巻き込んでいる。
なにせ、武蔵はあの「大和」の姉妹艦にして、旧帝国海軍が建造した最後の戦艦だ。 
両艦に搭載された46cm砲は世界最大を誇り、40km先の標的を攻撃できたというから、世界最強の艦に偽りなし。
武蔵は竣工から2年足らずのレイテ沖海戦であえなく撃沈されてしまったが、「魚雷20本、爆弾17発、さらに無数の至近弾という、他に類を見ない集中攻撃を受けても10時間近く沈まなかった」(SPA!きってのミリオタ)と、その逸話は今でも語り草となっているのだ。
3/10発売の週刊SPA!では、『宇宙戦艦ヤマト』で知られる松本零士氏が武蔵に対する思いを熱く語っているのだが、気になるのは今回、武蔵を発見したポール・アレン氏のこと。
なぜ、当時の敵国の、それもマイクロソフト共同創業者というまったく畑違いの人物が発見するにいたったのか?
その背景を知るのは、SPA!の連載陣としてもお馴染みの中年金融マンことぐっちー氏だ。
「日本人は彼のことを“アレン”って呼びますけど、本当は『アラン』です。
彼はアレンと呼ばれるのを嫌がるから注意してください」と前置きしつつ、アラン氏との出会いを振り返る。
中略
「『おめでとう』メールを送ったら、アランから『日本に寄贈したいと思っているんだけど、フィリピン政府が介入してきて困っている』という返信がありました。
どうやら、自腹で引き上げて、無償で日本政府に寄付するつもりだったみたいですよ?(笑)。
どれだけ太っ腹なんだ!って話ですけど、彼にとっては数百億円の引き上げコストなんて屁でもないのでしょう。
『フィリピン政府から買い取ってでも寄付する』とメールをくれました。本当にスケールの大きすぎる男です!」
武蔵が日本に帰還する日はそう遠くない!? アラン氏の心からのご活躍をお祈り申し上げます!
 
日本政府は受け取り、管理するのだろうか? 呉で建造した武蔵だろうが、呉で本格的な修理をして海上博物館にするか? 自衛隊が引き取るか? どちらかだろう。
譲ってくれると言うのであれば、日本はありがたく受け取るべきである。
2015・3・13 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(6)】 
「このままでは死んでしまう!」びしょ濡れの布団かぶり火の粉の中へ「火だるまになって倒れる人も…」吉田昭子さん(78)=東京都府中市在住
「記事内容抜粋」
東京の空襲というと、京王線幡ケ谷駅(東京都渋谷区)の近くに住んでいた私はどうしても5月25日深夜の「山の手大空襲」が思い起こされるわね。
見たことがないほど多くのB29が空を埋めていて、焼夷(しょうい)弾を投下する光景に圧倒されて声を失いました。
当時は8歳と幼かったけれど、空襲の被害を小さくとどめるための建物疎開で渋谷区内を転々としていたし、24日の夜にも表参道周辺で大きな空襲があったことは知っていたから、ついに来たと思ったものよ。
2015・3 IRONNA
拝啓 習近平 殿 
「記事内容抜粋」
一筆啓上 お尋ねします。御国は抗日戦争勝利をうたっておられますが、日本との戦争は何回あったのでしょうか。
日本が戦ったのはもっぱら蒋介石の国民党軍と記憶しているのですが──?
  立林昭彦の視線  共産中国の挑発  抗日戦勝70年、なぜ強調するのか  
  抗日戦勝70年、なぜ強調するのか  台頭する大国
  今後、日中関係はどうなると思いますか?
 
シナ共産党は西太平洋に何を求めているのだろうか? 覇権に何があるのだろうか?反日を煽り、軍備を拡大し何をしようとしているのか? 人民解放軍にいい思いをさせているだけではなさそうである。
2015・3・13 Bloomberg (1/2ページ)
中国、日中戦争発端の「盧溝橋」で戦後70年軍事パレードも
「記事内容抜粋」
中国は第2次世界大戦の終戦から70年を記念する軍事パレードを、北京近郊の盧溝橋で行う可能性が高い。
計画に詳しい関係者2人が明らかにした。
日中戦争は1937年に盧溝橋で起きた軍事衝突が発端となった。
計画は非公開だとして匿名を条件に関係者らが述べたところによれば、抗日戦争勝利から70年を祝い9月に行う軍事パレードは北京中心部の天安門広場ではなく、盧溝橋に隣接する広場で開催されるもよう。
東シナ海の尖閣諸島をめぐる対立や安倍晋三首相による2013年の靖国神社参拝などで日中関係が冷え込む中、軍事パレード自体がさらなる関係悪化につながりかねないが、盧溝橋事件の舞台でのパレード実施となれば両国関係を大きく損ねる恐れが出てくる。
テンプル大学日本校(TUJ)現代アジア研究所のロバート・デュジャリック所長は「日本との関係改善にまったく関心がないことを示すやり方だ」と指摘。
「ヒトラーやムッソリーニとは無関係の盧溝橋での軍事パレードはファシストや枢軸国の敗北を象徴するのではなく、日本に対する勝利を祝うものとなるだろう」と述べた。
  警備面の問題を検証へ
 
シナは戦勝国でも無い愚かな国が己の欲の為に史実を曲げ、懸命に歴史を修正している様は滑稽である。
見苦しい限りである。
シナ人民は何処までシナ共産党を信じているのだろうか?
2015・3・12 産経ニュース 【戦後70年~大空襲・証言(5)】
「寒い日だったが、焼夷弾で地面が温かかった」石渡元治さん(80)=東京都板橋区在住
「記事内容抜粋」
自宅は東京都王子区(現北区)にありました。
当時は10歳。
東京大空襲があった昭和20年3月10日は南の空が真っ赤になり、昼間のように輝いていました。
しかし、空襲の恐ろしさを実感させられたのは、その直後、焼け跡の整理のため駆り出された父のげんなりして帰宅した様子と、その話からでした。 
黒こげの遺体をトラックに運び込む仕事を1日中やらされ、食事ものどを通らずやつれた様子でした。
「これじゃあ、もうだめだ」。
父がささやいた言葉は今もはっきりと覚えています。 
空襲は自分たちの身にも降りかかってきました。
4月13日夜、城北大空襲に遭ったのです。
陸軍造兵廠(しょう)や被服廠を狙ったものとされるけど、実際には周辺に暮らしていた私たち一般市民の頭上に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせたわけです。
 
大分市の中心街も空襲で焼け野が原になったのだが、母が住んでいたのは幸いにも戦火一つ無い大分市から4km程離れた山中だったが、空襲当日の夜は 「空が夕日の様に赤く燃え、その明りで新聞が読める程だった」 と既に亡き母や叔父から聞いた事を思い出す。
噂はあったのだが、世に出て大分市の商店街で「中心街の地主が変わった」と聞いた事がある。
2015・3・11 産経ニュース 写真報道局 奈須稔
大空襲と今 つなぐ意志
「記事内容抜粋」
推計で10万人超が犠牲となった昭和20年3月10日の東京大空襲から70年。
10日付朝刊の1面には、米軍が撮影した空襲後の焼け野原と、現在の東京の空撮写真を1枚につなぎ合わせて掲載しました。
高層ビルが林立する現在の東京で、空襲の惨劇と復興をどう伝えるか。
米軍が撮った写真と同じ角度から撮影するため2度の空撮を行い、過去と現在をつなぐ写真の中央には、多くの人が炎に追われ飛び込んだ隅田川を配置しました。 
掲載したのはヘリからの空撮でしたが、70年前、陸軍関係者や警視庁のカメラマンが空襲後に撮影したのと同じ場所も歩きました。
GHQ(連合国軍総司令部)の接収を逃れ命がけで守られた写真は、燃え上がる町や、逃げ惑う市民に肉薄しています。事実を記録しようとする当時の日本人カメラマンの強い意志を感じました。
2015・3・11 産経ニュース (1/3ページ) 【戦後70年~大空襲・証言(4)】  
四方を火に阻まれ、やむなく自宅へ「ここが最期かなあ。死ぬのかなあ…」玉生うめ子さん(97)=横浜市保土ケ谷区在住
「記事内容抜粋」
当時は26歳で、嫁ぎ先の東京都大森区(現大田区)で夫と暮らしていました。 
私は大森へ嫁いでいて、実家のある深川区(現江東区)には、母と弟が暮らしていて、昭和20年3月10日の東京大空襲で被災しました。
私は大森から見ていたのだけど、東京方面の空が真っ赤でね。
人づてに実家のある下町地域が焼けたと聞いたので、翌日、おにぎりを持って水筒に水を入れて、夫と大森から都電で東京駅まで向かったのです。 
東京へ着いた後は徒歩で、隅田川にかかる新大橋へと歩いて行った。
一面焼け野原になっていて、遠くまで一望できたの。新大橋の手前に憲兵が立っていて、「ここから先はいけない」と足止めされました。
でも、この先に親がいると説明すると橋を渡らせてくれました。
2015・3・11 カナロコ by 神奈川新聞 
東京大空襲:生き証人が情景伝え 藤沢で勉強会
「記事内容抜粋」
「あの時、私は…」-。
70年前の 「東京大空襲」 の情景を、さまざまな形で見聞きした人たちに回想してもらう催しが10日、藤沢市内で開かれた。
「この世の地獄だった」「東京の空が真っ赤に染まっていた」。
生き証人たちは、記憶の糸を手繰り寄せ、自分だけの空襲史を伝えた。
70年の節目に合わせ、平和運動に携わる市民有志が内輪の勉強会として企画。
いずれも藤沢市内に住む上野武雄さん(88)、保坂治男さん(83)ら4人が当時を振り返った。
高等師範学校の生徒だった上野さんは当時、大塚消防署(現文京区)に勤務。
3月9日夜から宿直当番に就いていたが、夜中に空襲警報が鳴り響いた。
「署の望楼に登り、真っ赤に燃える空を何時間も眺めていた。ラジオでは『庶民が逃げ回っている』と」
 
何故、メデジアはこの声をアメリカに届けようとしないのか? 不思議でならない。
何を考えて報じているのか? アメリカの戦争犯罪を問うべきだろう。
2015・3・10 産経ニュース 
法要 首相「恒久平和のため貢献する」 遺骨安置の慰霊堂で法要
「記事全内容」
約10万人が亡くなったとされる東京大空襲から節目の70年を迎えた10日、犠牲者らの遺骨が安置されている東京都慰霊堂(東京都墨田区)で、秋篠宮ご夫妻をお迎えし、法要が営まれた。
遺族約600人のほか、安倍晋三首相、舛添要一知事らが出席、犠牲者の冥福を祈った。 
都慰霊協会によると、首相の参列は初とみられる。
安倍首相は追悼の辞で「あれから70年。戦災によって命を落とされた方々の尊い犠牲の上に、われわれが享受する平和と繁栄がある」とし、「過去に対して謙虚に向き合い、悲惨な戦争の教訓を深く胸に刻みながら世界の恒久平和のために能う限り貢献する」と述べた。 
会場の慰霊堂には入りきれない参列者が集まり、花を手向けたり、焼香したりし、それぞれ手を合わせて故人をしのんだ。 
毎年参列している江東区の堀池郁子さん(79)は大空襲で母と姉を亡くしたといい、「今でも食べる物に困って夢中で探していた当時のことを思い出す。こういう機会を通じて若い人に当時の悲惨さを知っていただきたい」と話した。
 
日本人の無念さがアメリカ政府に届いて欲しいものである。
2015・3・10 産経ニュース (1/5ページ) 写真報道局 松本健吾 【戦後70年~大空襲 番外編】
幻の写真見つかる 炎に焼けた下町の空…3・10の惨状を 炎をかいくぐって撮影を続けた男たち
「記事内容抜粋」
推計10万人超が犠牲になった昭和20年3月10日の東京大空襲から10日で70年となる。
未明の無差別爆撃だった上、軍が厳しい報道管制を敷いた時代だけに、これまで東京大空襲の最中に地上撮影した写真は存在しないとされていたが、炎上する東京の様子をとらえた写真9枚が残っていたことが分かった。
カメラマンの遺族が保管するフィルムを東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)が調査・分析した。
あの日、猛火をかいくぐりながら東京の惨状を撮り続けた男たちの姿を追った-。
2015・3・10 朝日新聞デジタル 【戦後70年~大空襲】 
(戦後70年)空襲、街ごと標的 火の海に
「記事内容抜粋」
  ■迫る炎、赤子抱え母は川へ 東京大空襲、一夜で死者10万人
軒先の防火水槽に氷がはる、寒い夜だった。
「落ちたぞ。逃げろ」
1945年3月10日未明。
東京・亀沢(現・墨田区)に暮らしていた橋本代志子(よしこ)さん(93)=千葉県船橋市=は、父の叫び声で、押し入れの床下に掘っていた防空壕(ごう)を飛び出した。
北の空が炎で赤く染まっていた。
米軍のB29爆撃機が、轟音(ごうおん)を響かせながら、次々と焼夷(しょうい)弾を投下していく。
まるで電柱すれすれを飛んでいるかのように、大きく、迫って見えた。
橋本さんは、当時23歳。……
 
こう言う記事を全て公開しない朝日新聞の狙いは? 大東亜戦争を煽ったのが朝日新聞であり、当の朝日新聞はこの事実を忘れたのだろうか?
2015・3・10 THE PAGE (1/2ページ) 【戦後70年~大空襲】 
きょう3月10日は東京大空襲から70年、東京都復興記念館で戦災を学ぶ
「記事内容抜粋」
10万人を超える市民が犠牲になったと言われる東京大空襲から10日で70年を迎えた。
新聞やテレビで連日報道され、新事実も発掘される。
しかし、「東京大空襲がどういうものだったのか?」 という基礎も全体像も知らずにそうしたニュースに接している自分がいることに気づく。
東京大空襲の資料を展示する東京都立横網町公園の資料館を訪れた。
東京都墨田区にある総武線JR両国駅を下車すると、南に歩いて3分の場所に「回向院(えこういん)」がある。
ここに来ると東京が過去に何度も大きな災いを受け、大きな犠牲者を出してきたことを思い起こさせてくれる。
振袖火事として知られ、10万人の犠牲者を出したとされる 「明暦の大火」(1657年) の無縁仏を葬ったのが回向院の始まり。
死者10万人を出した1923年の関東大震災、東京大空襲による犠牲者も供養されている。
中略
1944年にマリアナ諸島が陥落して以降、東京は100回を超える空襲を受けた。
初めて死者が出たのは同年11月24日の空襲で、死者は224人。
1945年に入って米軍の爆撃は激しくなる。
1月27日には、銀座や有楽町などが爆撃され、539人が死んだ。
東京を襲った空襲のなかでも最も被害が大きかったのが3月10日の東京大空襲で、一晩で8万3793人が犠牲になった(数値は資料館の展示による)。
2015・3・10 朝日新聞デジタル 【戦後70年~大空襲】
東京大空襲、火葬場足りず仮埋葬 身元不明の死者2万人
「記事内容抜粋」
無数の焼夷(しょうい)弾による猛火の夜が明けると、焦土と化した下町が姿を現した。
路上には焼死体が折り重なり、川面には女性や子の遺体が浮かぶ。
約10万もの犠牲者は、身元確認も不十分なまま、公園や寺院に「仮埋葬」された。
東京大空襲から、10日で70年――。
  ■「忘れたら死者うかばれない」
2015・3・9 産経ニュース 桑原聡  いい記事である 
(246)間奏 II 骨力を養う30年に
「記事内容抜粋」
明日で東京大空襲から70年である。
米国は一般市民を計画的かつ無差別に殺戮(さつりく)した。
このあとに続く広島、長崎への原爆投下とともに堂々たる戦時国際法違反だ。
16世紀、残酷な宗教戦争の渦中に生きたフランスの文人モンテーニュは『エセー』にこう書いている。
  《すべての規律が戦争から逃げ出す》
戦争とはそういうものである。
だから戦争はギリギリまで避けなければならない。
人間の歴史を振り返れば、戦争を避けるために軍事力を保持するのは当然すぎることだろう。
日本国憲法前文のような世界観は、能天気に世界市民を名乗る歌うたいにでもまかせておけばよい。 
皮肉なことに、戦後のわが国は、米国の庇護(ひご)(同盟とも呼ぶ)のもとに、70年にわたる平和を享受してきた。
このまましばらくは米国の子分であり続けるのが、わが国にとって現実的な選択だろうとは思う。
ただし、「親分、それはだめだ。考え直した方がいい。そんな理不尽なことに私は付き合えませんよ」 と啖呵(たんか)を切れるような現実的な力と胆力を養っておくことが絶対に必要だ。
造艦技術将校で東京帝大総長になった平賀譲さんは 「骨力さえよければ事故も少なく、戦ってもなかなか沈まない軍艦ができる」 と言っていたという。
船はまず背骨にあたる竜骨を造り、ここから肋骨(ろっこつ)のような骨組みを造ってゆく。
これを見れば骨力のレベルが分かるというのだ。
これからの30年は、衰弱した骨力を養う時代にしたいものだ。
2015・3・9 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲(5)完】 中村将、豊吉広英、玉崎栄次、石井那納子、徳永潔、南昇平、大森貴弘
「マッカーサー通り」はウソだった GHQは都市整備に無関心 宙に浮いた後藤新平の夢…
「記事内容抜粋」
  「パリのシャンゼリゼ通りに匹敵する国際色豊かなプロムナードにしたい!」 
平成26年3月29日、東京都港区の新橋-虎ノ門間1・4キロを結ぶ「新虎通り」の開通式で都知事の舛添要一は笑顔であいさつした。 
幅40メートルで地下は自動車専用、地上は車道と広い歩道という二重構造。
道路上に超高層の「虎ノ門ヒルズ」(26年6月開業)がそびえ立つ。
すべて開通すれば新橋と臨海地域を直結し、2020(平成32)年の東京五輪・パラリンピックではメーンスタジアムの新国立競技場(新宿区霞ケ丘町)と選手村(中央区晴海)などを結ぶ役割を担う。 
この道路こそ、幻の大幹線道路といわれる「環状2号線」の一部である。
当初は幅100メートルの道路が、外堀通りに代わって新橋-蔵前橋を結ぶ計画だった。
かつてこの道路はGHQ(連合国軍総司令部)のダグラス・マッカーサー最高司令官にちなみ「マッカーサー道路」と呼ばれた。
「マッカーサーが虎ノ門の米国大使館と東京湾の竹芝桟橋を結ぶ道路を計画している」という噂がまことしやかに流れたからだった。
中略
20年8月15日。正午の時報の後、ラジオが「重大なる放送」を告げると、ほどなく昭和天皇の声が流れてきた。
  「もう、空襲はなくなるのか…」
  焦土と化した日本をどうやって再生するのか。
つづく
2015・3・8 沖縄タイムス
社説[地に刻む沖縄戦 僕ら少国民]消えた授業 失われた命
「記事内容抜粋」
戦時体制下の学校教育の再編によって1941年、尋常小学校が国民学校へと改められると、子どもたちの生活は一変した。教育は愛国心を育てることに力を注ぎ、行事は軍国調一色に染まる。
学校から通常の授業が消えていった。
山原の自然に囲まれた村の子どもたちも例外ではなかった。
大宜味村喜如嘉国民学校の様子を「喜如嘉の昭和史 村と戦争」(福地曠昭著)が克明に記録している。
「国民精神総動員運動の一環として毎月8日を『大詔(たいしょう)奉戴日(ほうたいび)』と定め、戦争協力の行事がとり行われた。校門には大きな国旗が掲げられ、校長が詔書を奉読し、全校生徒で『海ゆかば』を斉唱した」
「紀元節」 「天長節」 といった儀式が重視され、「戦没勇士墓地清掃」「食糧増産作業」などの奉仕活動が授業に組み込まれた。
70年前の45年3月1日、いよいよ空襲が激しくなり、喜如嘉国民学校はほとんどの授業を取りやめた。
3日には男子教員が全員応召され、学校は閉鎖された。
23日に予定されていた卒業式が開かれることは、ついになかった。
 
確かにアメリカ軍が沖縄に上陸し、本土決戦が行われたが、嘘まで捏造し沖縄県民を卑下する事は無かろう。
東京大空襲、全国各地の都市への空襲、大分も例外では無い。
広島、長崎の原爆、日本全土が悲惨な状況に陥り、沖縄県だけが特別では無く、日本人は皆、苦労を強いられた。
沖縄左翼メディアは、歴史を捏造し、沖縄県の人々を惑わせる事無く、史実だけを忠実に報道し、今より真面な日本を作ろうではないか。
2015・3・8 朝日新聞 
焼け野原だった地域、今の姿は 東京大空襲から70年
「記事内容抜粋」
約10万人が亡くなったとされる東京大空襲から10日で70年。
空襲直後に米軍が撮影した墨田区(当時は本所区)付近と同様の角度から朝日新聞社ヘリで現在の姿を見た。
東京スカイツリーが立ち、焼け野原だった地域に、びっしりとビルが並ぶ。
空襲直後の写真で左側を斜めに走る大横川は、現在は一部が親水公園に変わった。写真の上方に流れる隅田川の先には、今では月島や豊洲の高層ビルが並ぶ。
同空襲は1945年3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機が東京の下町に焼夷(しょうい)弾約33万発を投下。現在の墨田区、江東区、台東区を中心に約40平方キロが焦土となった。(嶋田達也)
 
酷いもんだ。
アメリカ軍関係者は当時、皆この有様を知っているハズ、己らの蛮行を愚かと誰も反省しなかったのだろうか? この有様が戦争犯罪で無いとするなら、大日本帝国が犯したとされる戦争犯罪は何処にあるのだろうか? 
嘘つきシナには、アメリカ軍が爆撃機300機を使い焼夷弾30万発投下し、非戦闘員・日本人婦女子が10万人の大虐殺を実行した現場だが、想像が出来まい。
当時、大日本帝国軍の南京入城の動画がユーチューブにアップされているが、30万人もの大虐殺の痕跡が何処にあると言うのか? 
別冊「正論」 15号  IRONNA  田中秀雄(近現代史研究家) 戦後70年 日中関係
対日「十五年戦争」への前奏曲~かくして大陸は赤く染まった
「記事内容抜粋」
  東亜保全-日本の大命題  二十一カ条交渉における日清・日露の戦後処理  「欣然同意」の西原借款
  五四運動が孕んだ「種」  ワシントン会議の外交敗北  孫文の連ソ容共政策  
  共産主義浸透と暴虐事件の続発  済南事件の本質  田中上奏文と唐生智の足跡
  新たな「十五年戦争」史観を  
2015・3 IRONNA 
戦艦武蔵、海底からのメッセージ
「記事内容抜粋」
先の大戦で撃沈した当時世界最大級の戦艦「武蔵」とみられる船体の一部が、フィリピン沖の海底で見つかり、注目を集めている。
71年前のレイテ沖海戦で米軍の猛攻により撃沈した戦艦武蔵。
その経緯は今も謎に包まれ、専門家の間でも意見が分かれる。
海底からのメッセージは何を伝えるのか。
  大富豪の大発見  超弩級戦艦  「大和」副砲長が明かす秘話  史上最大の海戦  「謎の反転」の謎
2015・3 IRONNA 
日中戦争(シナ事変)の真犯人
「記事内容抜粋」
戦後70年が経っても「侵略国家」との烙印を押されたままの日本。
近年では対米英戦を「侵略戦争」だと主張する向きは少なくなったが中国大陸は「日本が侵略した」との考えが今なお根強い。
だが、日本は本当に中国侵略を望んでいたのだろうか。
  小島新一のズバリ正論  小島新一のズバリ正論  7月7日といえば…  7月7日といえば…
  泥沼に引きずり込まれる  対日賠償はいつまで続く  関連記事  
  日本は中国侵略を望んでいたと思いますか?
 
大日本帝国は、ロシアのスパイに翻弄され、大東亜戦争(シナ大陸)へ踏み込んだのだが、元お越しはシナ国民党の蒋介石である。
第一次大戦以降、大日本帝国は、海軍力を背景に世界の一等国へと駆け上り、国際連盟の会議場で 「人種差別廃止」 を堂々と発言した。
当時、世界は欧米列強の植民地であったが、アジアの一等国である大日本帝国がそれに異議を唱えたのである。
白人社会が黄色人種である大日本帝国の主張を呑めるハズも無い。
この時、大日本帝国が、現シナ共産党が執拗に仕掛ける日本へのプロパガンダを世界に向け、計画的に実行していれば、大東亜戦争が起きずに済んだ可能性がある。
しかし、大日本帝国にはシナ共産党の強かさと計画性が無かった。
自惚れていた可能性がある。
日本は今後、シナ共産党の強かさを見習い、目的を定め計画的にプロパガンダを実行する必要がある。
2015・3・8 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~大空襲(4)】 
米軍、地方都市にも容赦なく 防空壕から孫を追い出した祖母の愛 終戦前日にはアジア最大の軍事工場も廃墟に…
「記事内容抜粋」
  「孝輔、出てけ!」 
祖母はこう怒鳴ると、国民学校1年の樋口泰助(76)=孝輔から改名、福岡市在住=を猛烈な力で防空壕から押し出した。 
昭和20年3月10日の東京大空襲を“成功”させた米軍は地方都市にも容赦なかった。
6月19日深夜には、わずか30万人の商業都市にすぎない福岡市にもB29爆撃機221機が襲来。
天神や博多など市街地を挟み撃ちにするように西と東から焼夷弾を雨のように降らせた。
市内家屋の18%にあたる1万2千戸が被災し、1千人以上が命を落とした。
 
軍関係の空爆は致し方が無いが、非戦闘員の民家目掛けた空襲は単なる大量殺戮にしか過ぎない。
これこそ、白人の思い上がりである。
現在尚、アメリカの謝罪すら無い。
アメリカの空襲の実態が掲載されている。
2015・3・7 産経ニュース 【戦後70年~大空襲(3)】
表参道の石灯籠 黒ずんだ台座に爪痕
「記事内容抜粋」
高級ブティックが並び、夜もきらびやかな東京・表参道の交差点。そのシンボルである2基の石灯籠は、若者らの待ち合わせ場所としてにぎわうが、その黒ずんだ台座は米軍による空襲の爪痕を今に残す。 
昭和20年5月24、25日の「山の手空襲」では2日間で約1000機のB29爆撃機が来襲し、新宿、渋谷一帯に6903トンの焼夷弾を投下、4000人以上が亡くなった。
大正9年の明治神宮創建時に建立された石灯籠も炎に包まれ、周囲は遺体で埋め尽くされた。
2015・3・6 産経ニュース 
東京都慰霊堂 ともに眠る東京大空襲の犠牲者
「記事全内容」
東京都慰霊堂(東京都墨田区)には、昭和20年3月10日の東京大空襲の犠牲者の遺骨が納められている。
普段立ち入ることはできないが、毎年3月10日と関東大震災が起きた9月1日に法要が営まれる。 
大空襲直後、多くの遺体は火葬されず、公園などに仮埋葬された。
終戦後の昭和23~26年に掘り起こして荼毘に付し、関東大震災の犠牲者の遺骨を納めた都慰霊堂に一緒に納めた。
 
混乱の中、被災者の確認もままならない状況でどうしたのかと案じていた。
敗戦時でもさすが日本人、手厚く葬ったのであろう。
アメリカ人よ、シナ人よ、朝鮮人よ、これが日本人だ!少しは見習え!
2015・3・6 産経ニュース (1/7ページ)  【戦後70年~大空襲(2)】
帝都を襲った「赤い悪魔」 おぶった子の死を気付かぬ母も 「町中すべてが真っ白け」
「記事内容抜粋」
昭和20年3月9日。
東京の下町には冷たい強風が吹き荒れていた。
翌3月10日は陸軍記念日。
巷では、この日を狙って米軍が大規模な空襲を仕掛けてくるのではないかといううわさが流れていた。 
このところ見かけることが減っていた子供の姿も、この日はやけに目立った。
国民学校の児童の多くは、学童疎開で地方生活を余儀なくされていたが、6年生は母校での卒業式に出席するため、自宅に戻っていたのだ。 
9日午後10時半、警戒警報が発令されたが、ほどなく解除された。
東京都浅草区(現台東区)でプレス工場を営む父とともに暮らす相原孝次(85)=神奈川県箱根町在住、当時15歳=は、多くの都民と同様に、いつでも避難できるよう靴下を履いてゲートルを巻き、枕元に鉄カブトや防空頭巾を置き、眠りについた。
中略
「子供の体が残っていればまだいい方。
中には首や腕、足がなくなった子供を背負っている母親もいました。
誰もが放心状態で目はうつろ。その様子は、地獄絵図でした」
 
アメリカよ、この惨劇記事を読め! これこそアメリカが犯した戦争犯罪である。
2015・3・5 産経ニュース (1/3ページ) 【戦後70年~大空襲(1)】
なぜ米軍は東京大空襲を機に無差別爆撃に踏み切ったのか?
「記事内容抜粋」
先の大戦中の首都・東京への空襲は100回を超えるが、昭和20年3月10日の「東京大空襲」を機に、米軍は、一般市民をターゲットにした無差別爆撃に舵を切った。
なぜ米軍は戦術を転換したのか-。 
20年1月20日、後に「米空軍の父」と言われる米陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルド大将(後に空軍元帥)は、爆撃で成果を上げられない日本空爆の指揮官、ヘイウッド・ハンセル准将を更迭し、欧州戦線などの爆撃で成果を上げたカーチス・ルメイ少将(後に空軍大将)を任命した。 
ルメイ氏は、それまでの軍需工場への精密爆撃をやめ、一般市民を多数巻き込む無差別都市爆撃を計画した。
ルメイ氏は戦後、自著で無差別爆撃を「全ての日本国民は航空機や兵器の製造に携わっている」と正当化している。 さらにルメイ氏は、高度1万メートル近い高高度昼間爆撃から2千メートル前後の低空夜間爆撃に切り替えた。
爆弾搭載量を増やすため機銃の大半は取り外させた。
3月の時点で護衛戦闘機はなく、もし敵戦闘機に襲われても反撃のすべはない。
B29搭乗員の多くは「死の宣告」と受け止めたという。
 
アメリカは、大東亜戦争を起こした事の反省もせず、数々の災いを世界に撒き散らしているのだが、東京大空襲を実行し、老若男女、幼子から赤子までを大殺戮したアメリカ人の言い訳が醜く姑息で愚か過ぎると思うのだが・・・
日本本土大空襲は明らかにアメリカの戦争犯罪である。
2015・3・5 産経ニュース (1/7ページ) 【戦後70年~大空襲(1)】  
米軍元パイロットが見た空襲「マッチのように燃え広がり…」 「運命の出会い」で憎悪はやがて友情に 
「記事内容抜粋」
小さなオレンジ色の炎が見えた。
まるで火のついたマッチ棒を落としたようだった。
地上に落ちた炎は所々で光り、次第に大きく広がり、火の海となった。 
上空に立ちこめた灰色の煙はだんだんと真っ黒になり、地上の様子は見えなくなった。
コックピット内にも煙が漏れ入ってきた。
何とも言えぬ、ひどい臭いだった-。 
これは、元米陸軍第78戦闘機飛行中隊の戦闘機P51マスタングのパイロット、ジェリー・イエリン(91)=アイオワ州在住=が、高度2万2千フィート(6706メートル)から見下ろした東京空襲の光景だ。
今も脳裏に焼き付いているという。
 
生きたまま日本人が焼け死ぬ姿を想像しただろうか? 「憎悪はやがて友情に」と軽々しく言ってほしくない。
個人は記事の内容で済むだろうが、戦後生まれ戦後70年のアメリカの姿を見て来た私だが、アメリカは大東亜戦争には勝利したが、人間として日本人より遥かに劣っていると考えている。
戦争は兵士がお互いを殺し合うのは止むを得ない。
しかし、アメリカは、日本本土の大空襲と二種類の原爆だけで80万人以上の日本人の非戦闘員、婦女子を含む大量大虐殺をしたのである。
この事実に対し反省の意思すら無い。
これが優れた白人のやる事なのだろうか? 近頃、歳のせいか無性にアメリカ政府の日本民族への謝罪が欲しいとの思いが強くなる己がいる。
私だけだろうか?